〒606-8311 京都市左京区吉田神楽岡町30番地 TEL 075-771-378 http://www.yosidajinjya.com


 第一殿
 建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)
 第二殿
 伊波比主命(いはいぬしのみこと)
 第三殿
 天之子八根命(あめのこやねのみこと)
 第四殿
 比売神(ひめがみ)



清和天皇貞観元年四月(西暦八五九年)中納言藤原山蔭が平安京の鎮守神として、都城の東北(鬼門)比叡の山とともに王城の鎮護と崇められる地である吉田山に創建された。 爾来永延元年(西暦九八七年)一条天皇の行幸を始め正暦二年(西暦九九一年)大社の一に列せられ、堀河天皇嘉承元年(西暦一一〇七年)四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶が吉田神道を創設し、後土御門天皇文明一六年(西暦一四八四年)斎場所大元宮を造営してより益々隆盛加はり神道界の絶大なる権威を保持したのである。旧社領五百九十石。



斎場所大元宮

祭神 天神地祇八百萬神 (あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)

内院鎮座神 東神明社 祭神 天照皇大神
  西神明社 祭神 豊宇氣比売神
  東西諸神社 祭神 式内神三千百三十二座(全国の神)

由緒
昔左京室町に在ったのを吉田兼倶が後土御門天皇文明十六年(西暦一四八四年)に現地に造営、同年十一月二十四日奉請の上遷座し、吉田神道の根元殿堂として道を説き教を設けて神祇道の振興に多大の貢献をしたのである。また、後陽成天皇天正十八年(西暦一五九〇年)勅によりて八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見奉仕して鎮魂祭を行い、慶長十四年(西暦一六〇九年)更に勅を受けて神祇官代として伊勢例幣使例幣使の儀礼を修め、明治四年迄継続したが翌五年八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座した。彼の有名な宗源宣旨並裁許状を発行し神職界の宗家と仰がれ神道の中心地であった。 毎年節分には特殊神事が行われ厄除祈願の参拝者群集し一般の崇敬極めて篤い社である 社殿 本殿は朱塗の八角に六角の後房を附し、屋根は茅葺八角、千木は南方が内削、北方が外削に勝男木は南方が丸三個重ね三ヶ所に北方は角二個宛二ヶ所に、又棟の中央七角の台に八咫璽が置かれ七本の火炎型の金具を取付けてある等、特殊なる形体は総べて吉田神道の原理により表現された社殿である。現在の社殿は昭和十四年に改修、昭和五十五年に修理されたもので、重要文化財(旧国宝)に指定されている。



山蔭神社


祭神 藤原山蔭卿 (ふじわらやまかげきょう)
相殿 恵比須神

由緒
例祭 五月八日
山蔭卿は清和天皇貞観元年(西暦八四五年)奈良春日の大神を勧請し平安京鎮護の神として吉田神社を創建され又吾が国に於いてあらゆる食物を始めて調理調味づけた始祖であり古来包丁の神、料理、飲食の祖神として崇敬厚き神である。 昭和三十二年吉田神社御鎮座千百年大祭を機に全国料理関係者創建に協賛同三十四年五月鎮祭



菓祖神社

祭神 田道間守命 (たぢまもりのみこと)  林浄因命 (はやしじょういんのみこと)

由緒
京都菓子業界の総意により菓祖神社創建奉賛会を結成、昭和三二年十一月十一日兵庫県中島神社、和歌山県橘本神社、奈良県林神社の祭神を鎮座。



その他、吉田地域の氏神である今宮社・神楽岡社をはじめ境内各所に様々な神を祀られており、古く聖域として崇められた吉田山は「神集う岡=神楽岡」と呼ばれ民衆の憩いの場として親しまれている。






追儺式


火炉祭


方相氏
室町時代に執行されて以来信仰の伝統を誇る京洛の一大行事約百万の参拝で境内は埋め尽される。 節分祭は本宮並大元宮に於て節分の当日を中心に前後三日間に亘り執行される。主なる祭儀は疫神祭、追儺式、火炉祭である。 疫神祭は本宮前日祭に引続き大元宮に於て門外に向かって疫神を祭り「荒ぶる事なく山川の清き地に鎮まります」事を祈り神酒洗米を撒く祭事である。 追儺式は前日の午後六時本宮に於て行われ俗に「鬼やらい」と称し平安朝の初期より毎年宮中にて執行されその儀式は大舎人黄金四つ目の仮面を被り玄衣朱裳を着装し盾矛をとりて方相氏となりしん子(し)といへる小童多数を従え陰陽師祭文を奏し終れば方相氏大声を発し盾を打つこと三度、群臣呼応して舞殿を一巡し上卿以下桃弓で葦矢を放ち疫鬼を追い払ふ式で平安京鎮護の神又全国の神を祀る当社では古くより節分に此の行事を行い鬼即ち悪神を追い払い諸人の不幸を除いて人々の幸福と平和な生活を願うのである。 火炉祭は本社の二ノ鳥居前八角形の火炉に参拝者が持参した旧い神札を積み上げて当日午後十一時、三十六枚の小土器に濁酒をついで供へ祝詞を奏上した後浄火を点じて焼上げる神事で、その火焔天に冲する有様は盛観を極め、参拝者は烈火を厭はず争って神酒の小土器をうばいあう。 また大元宮正面に厄塚を立てて参拝者の厄を負する神事は信仰の中心をなすもので、参拝者は必ず姓名や年令を記した紙に賽銭厄豆を包んで詣り、厄を払い神の加護を乞い一年の無事を祈願して、春に移る季節と共に明朗な生活を願うのである。 尚節分の三日間は梔色の神符、疫神斎、厄除守、開運守、破魔矢、福豆(抽せん券付)等を授与する。





 吉田の地は、古来由緒に富んでいる。かの在原中将業平は遺言し、世を去った後吉田の奥に葬り、廟をつくらしめたという。 鎌倉時代となっては、承久の頃権勢並ぶものなかった西園寺公経が、このあたりに泉亭を造営し、寛喜三年(西暦一二三一年)八月、ここに九条道家及びその子教実と公経の子実氏を招いて競馬を覧た。藤原定家の子為家も参会した。泉亭というから、池泉をとり入れた豪奢な別荘であったと思われるが、当時この付近は清閑の地で、山荘を営むに恰好の処であったのであろう。 元久二年(西暦一二〇五年)には後鳥羽上皇が当社の南に御所を営まれている。 そのほか中世より近世にかけ、吉田山頂、あるいは山麓に寺院の数々が立てられたが、これらは当社とゆかりの深いもので、今はわずかに遺跡を止めるにすぎない。  吉田寺は吉備真備の作になる観音を本尊としたと伝え、寺廃絶後、黒谷へ移されたという。 神竜院は兼倶の子が僧となり九江と号し、南禅寺に属して創建したものである。 智福院は虚空蔵をまつり、卜部家が建てたところ、また神恩院はもと兼好法師住んだ蹟と伝え、同じく卜部家が営んだ寺である。 神光院は当社の神宮寺として建立されたもの、敬田寺は兀庵を中興の開基とする神宮寺としたもの、本尊千手観音は六尺二寸の立像で、始め中納言大和の長谷寺に参詣し、観音像造立の願を立て祈誓中、本尊感応あって童子となりこの地に来った。よって中納言唐土より将来の栴檀香木を与えたところ、童子一千日篭居して造立を了えた。 大阪府下茨木市の総持寺も中納言の立願による同じ霊像を本尊とし、両寺とも新長谷寺と号した。吉田の新長谷寺は、洛陽三十三所巡礼の第五番の札所であった。 また浄瑠璃の作者竹田出雲は有名な「菅原伝授手習鑑」の中に、藤原時平公、吉田社参詣の場面を作り、梅王・桜丸立ちまわりの華やかな場を描き、大衆を楽しましめている。 明治二十二年八月、第三高等学校、大阪より現京都大学の敷地に移るや、ここに始めて吉田の地が学問の府として後日大発展をとげる端緒をつくったのである。有名な三高の寮歌「紅萌ゆる」に歌われた吉田山は学問の自由を求めて遠大な抱負に生きる三高生にとって、長く忘れられぬ風物となった。現在も三高寮歌記念の歌碑が吉田山山頂に立っております。 もと卜部氏邸があったと伝えられる二本松も落雷のために焼け、他の一本は昭和九年の台風に倒れて、今は徒らに町名として名残を止めるにすぎなくなっている。


住所 
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