賀茂御祖神社(下鴨神社)
賀茂御祖神社(下鴨神社)
神社の起り

 当神社がまつられたのは、崇神天皇の7年に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。先年糺の森周辺の発掘調査で弥生時代の住居跡や土器がたくさん発掘され、それを裏付けています。『続日本紀』の文武天皇2年(698)には、葵祭に見物人がたくさん集まるので警備するように、という命令が出された、という記事があります。このことから、奈良時代より前から当神社が大きなお社で、盛大なお祭がおこなわれていたことがわかります。
 平安時代には、国と首都京都の守り神として、また皇室の氏神さまとして、特別の信仰を受け、式年遷宮や斎王の制度などがさだめられていた特別な神社であったことがしられます。そして『源氏物語』や『枕草子』など王朝文学にしばしば登場いたしますように、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。平安時代末期になりますと全国に六十余箇所もの荘園、御廚が寄進され神社をささえました。
 鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も連絡が次第に絶えて行きますが、代わって国民の信仰が神社をささえていくようになりました。神殿守(殿司)とよばれる人々が全国をまわってご神徳を説いていくのもこのころです。当神社を舞台とする、数多くの能(謡曲)などに、そのころの様子がうかがわれます。また国の重要な出来事には、かならずご祈願が行われました。江戸時代にも、国と国民の幸福を祈願する神社として、神社の運営のため幕府より領地が寄せられました。明治初年、全国の神社の代表として、官幣大社の首位におかれ、今日まで国と国民のための祈願を日々おこなっています。

歳時記

蹴鞠はじめ(けまりはじめ) 1月4日
蹴鞠はじめ
蹴鞠はじめ

御粥祭(おかゆさい) 1月15日
成人祭(せいじんさい) 成人の日の前日
節分祭(せつぶんさい) 2月3日
流し雛(ながしびな) 3月3日
流鏑馬神事(やぶさめしんじ) 5月3日
古武道奉納(こぶどうほうのう) 5月4日
斎王代禊の儀(さいおうだいみそぎのぎ) 5月4日(隔年)
歩射神事(ぶしゃしんじ) 5月5日
流鏑馬神事
献香祭(けんこうさい) 5月中
献茶祭(けんちゃさい) 5月中
献花祭(けんかさい) 5月中
御蔭祭(みかげまつり) 5月12日
賀茂祭(かもさい)<葵祭り:あおいまつり>5月 15日
蛍火の茶会(ほたるびのちゃかい) 6月上旬
みたらし祭(みたらしまつり) 土用の丑の日
夏越神事(なごししんじ) 立秋前夜
結納祭(ゆいのうさい) 9月9日
名月管絃祭(めいげつかんげんさい) 仲秋の名月
言社大国神秋祭(ことしゃだいこくしんあきまつり) 10月9日
神嘗祭(かんなめさい) 10月17日
葵祭
明治祭(めいじさい) 11月3日
新嘗祭(にいなめさい)11月23日
出雲井於神社火焚祭
(いずもいのへじんじゃひたきさい) 11月28日
御薬酒神事(おやくしゅしんじ) 12月12日
天長祭(てんちょうさい) 12月23日
月次祭(つきなみさい) 毎月1日


賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと) 東殿

 賀茂建角身命は、古代の京都をひらかれた神さまです。山城の国一宮として京都の守護神としてまつられています。平安京が造営されるにあたって、まず当神社に成功のご祈願が行われました。以来、国民の平安をご祈願する神社と定められました。

玉依媛命 山城国『風土記』などに、玉依媛命が鴨川で禊(みそぎ─身を清める儀式)をされているときに、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床におかれたところ、御懐妊になり、上賀茂神社のご祭神、賀茂別雷命をお生みになったとの神話が伝えられていますので、古くから縁結、子育ての神さまとして信仰されています。当神社は、国家国民の安穏と世界平和をご祈願する守護神であるとともに、厄除、縁結、安産、子育、交通安全など人々の暮らしを守る神さまです。【ご神徳】賀茂建角身命は、農耕をひろめ民生の安定につとめられたことによって世界平和、五穀豊穣、殖産興業、身体病難解除。また、『古事記』『日本書紀』には、賀茂建角身命を八咫烏(やたからす)として表わされた御功績が伝えられているとおり、導きの神として方除、厄除け、入学、就職の試験などの合格、交通、旅行、操業の安全等多方面に御神徳を顕わしておられる。
 御子神、玉依媛命は、『風土記』に御神威が伝えられている。婦道の守護神として縁結び、安産、育児等。また、水を司られる神として著しい御神徳を発揚せられている。

見どころ
本殿(ほんでん) 本殿(ほんでん)
文久3年造替、三間社流造、桧皮葺、東西二棟
国宝

神社建築の代表的な社殿形式である流造の祖型を今に伝える。亀腹の上に井桁を組む高床式で橋がかりを付す古代様式の遺風がみられる。本殿二棟はいずれも国宝で、東殿には玉依媛命(たまよりひめのみこと)、西殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の両御祭神がそれぞれまつられている。
祝詞屋(のりとや) 祝詞屋(のりとや)
寛永5年造替、桁行五間、梁間一間、両端破風、桧皮葺
重要文化財
幣殿(へいでん) 幣殿(へいでん)
寛永5年造替、桁行五間、梁間二間、入母屋造、中央軒唐破風、桧皮葺
重要文化財
『鴨社古図』によれば「幣帛殿」と「幣殿」は別棟となっている。また、『延喜式』斎王社参の条には、斎王の拝礼は幣殿向拝より先に西殿、次に東殿より行われている。幣殿向拝を「片半屋」と称し、西片半屋を「親王座」と称する拝所とされている。
御料屋(ごりょうや) 御料屋(ごりょうや)
寛永5年造替、桁行四間、梁間三間、入母屋造、東西二棟
重要文化財
神饌(お供え)の準備や盛り付けが行われる社殿。
中門(ちゅうもん) 中門(ちゅうもん)
寛永5年造替、四脚門、切妻造、桧皮葺
重要文化財
賀茂祭、遷宮、行幸等々のとき祀官の座となる。
舞殿(ぶでん) 舞殿(ぶでん)
寛永5年造替、桁行四間、梁間三間、入母屋造、妻入、桧皮葺
重要文化財
賀茂祭(葵祭)のとき勅使が御祭文を奏上され東游が奉納される。御所が災害にあわれたとき、臨時の内侍所と定められている。式年遷宮寛永5年度(1628)造替後は、21年目ごとに解体修理が行われる。入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間。殿上は、宣命座の設置など柱間ごとに、細かく規定されている。
神服殿(しんぷくでん) 神服殿(しんぷくでん)
寛永6年造替、桁行五間、梁間四間、入母屋造、桧皮葺
重要文化財
行幸の節に玉座となる殿舎。夏、冬の御神服を奉製する御殿であったため、その名がある。古代祭祀の神殿様式を伝える貴重な社殿である。近世は、勅使殿又は着到殿となり古来殿内の一室が行幸のときは、玉座となった。「開けずの間」として伝えられている。古くから御所が災害にあわれた時、臨時の御座所と定められている。
橋殿(はしどの) 橋殿(はしどの)
寛永5年造替、桁行四間、梁間三間、入母屋造、妻入、桧皮葺
重要文化財
御蔭祭のとき、御神宝を奉安する御殿。古くは御戸代会(みとしろえ)神事、奏楽、里神楽、倭舞(やまとまい)が行われていた。また行幸、御幸のさい、公卿、殿上人の控え所と定められていた。現在は名月管絃祭、正月神事等年中祭事のときに神事芸能が奉納される社殿。
細殿(ほそどの) 細殿(ほそどの)
寛永5年造替、桁行五間、梁間二間、入母屋造、中央向拝、桧皮葺
重要文化財
歌会、茶会等が行われる殿舎。平安時代の当神社『神殿記』に「細殿」とあり、歴代天皇の行幸、上皇、法皇、院、関白賀茂詣には、歌会などが行われた社殿である。近くは、霊元天皇、享保年中の行幸に歌会が行われた。また、天明度御所回禄(火災)には、内待所(賢所)の奉安所となり、文久、回禄の時には、祐宮(明治天皇)安座所となったほか、文久3年、孝明天皇賀茂行幸には、徳川家茂将軍の待所となるなど歴史的な社殿である。内部の構造は、二重合天井となっており、外部は向拝付流造という建築学的にも貴重である。
久御所(くごしょ) 久御所(くごしょ)
寛永5年造替、桁行九間、梁間三間、入母屋造、檜皮葺
重要文化財
叉蔵(さぞう) 叉蔵(あぜくら)
寛永5年造替、桁行三間、梁間三間、校倉、入母屋造、本瓦葺
重要文化財
預屋(あずかりや) 預屋(あずかりや)
寛永5年造替、桁行五間、梁間三間、入母屋造、桧皮葺
重要文化財
古くは、神官が神前奉仕のため控えている社殿。現在は、儀式殿いずれも、江戸時代寛永5年、式年遷宮のとき造替になった社殿。
西唐門(にしからもん) 西唐門(にしからもん)
寛永5年造替、一間一戸向唐門、桧皮葺
重要文化財
屋根の唐破風の形式からその名がある。また欄間にブドウの紋様が彫刻されているところからブドウ門ともよばれている。「古事記」や「日本書紀」に伊薙諾尊が黄泉国から逃げ帰られたとき、追いかけて来た鬼に髪飾りを投げつけられるとエビカズラの実に変わった、との神話がある。エビカズラは、野生のブドウのことで「源氏物語」などに、えび色(ぶどう色)と記しています。また平安時代は、薬草の一種とされていた。ブドウ棚の紋様は、我が国独自の意匠であり、神話が伝えているように門をくぐる人々を御祓する意味を表している。
大炊殿(おおいどの) 大炊殿(おおいどの)
寛永5年造替、桁行五間、梁間三間、切妻造、本瓦葺
重要文化財
神饌(お供え)の御料を煮炊きし、調理をする社殿で大炊所(おおいどころ)とも呼ばれている。入口の土間に竈があり、中の間は、お供えの材料や用具を洗ったり、調理する台所。奥の間は、盛り付けをし、神前へお供えする順に並べておく配膳棚が設けてある。古くは、この社殿ではご飯、餅、ぶと、まがり(お菓子)など穀物類が調理された。お酒は酒殿。魚介鳥類に贄殿で料理されていたが、文明2年(1470)6月10日、乱の兵火によって焼失した。その後、大炊殿は、現在の場所に再興された。酒殿は退転、贄殿は、供御所の一間に充てられた。神社建築のなかでこの種の社殿が現存するのは非常に希で貴重である。
井戸屋形(いどやかた) 井戸屋形(いどやかた)
寛永5年造替、桁行二間、梁間一間、切妻造、妻入、棧瓦葺
重要文化財
若水神事並びに神饌御料の神水が汲取られる所。井戸の井筒を井戸屋形。上屋を井戸屋と呼び全体を御井と称している。井戸屋の前に「水ごしらえ場」がある。式内末刀社の御祭神が御降臨される処との伝承の石(橋と呼ばれている)がある。毎年12月12日には御薬酒神事と若水をくむ古代様式の神事が行われる。また井戸が文化財に指定されているのは他に例をみない。
西唐門(にしからもん) 西唐門(にしからもん)
楼門 楼門(重要文化財) 楼門廻廊(重要文化財)
寛永5年造替、三間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺
重要文化財楼門廻廊
寛永五年造替、桁行十六間、梁間一間、東西二棟、端切妻造、桧皮葺
重要文化財
高さ20メートル。東西の廻廊とも、古代様式を伝えている。21年ごとの式年遷宮ごとに造替されてきたが寛永度以降は解体修理をして保存されている。西廻廊の床張の一間は賀茂祭(葵祭)のとき勅使がここで剱を解かれる間(剣の間)である。楼門、東西廻廊とも、式年遷宮寛永5年度(1628)造替になった。
史跡
糺の森(ただすのもり) 糺の森(ただすのもり)   糺の森(ただすのもり)
 史跡糺の森は、高野川と鴨川が合流する三 角州地帯の森林をそのように呼ばれている。かつては、約495万平方メートル(約150万坪)の原生林であったが、中世の戦乱や明治4年の上知令によって現在の約12万4千平方メートル、東京ドームの約3倍となった。現在は全域を国の史跡として保存されている。 史跡糺の森は、旧山背原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年から600年の樹木約600本が生い茂っている。樹林の間には奈良の小川、瀬見の小川、泉川、御手洗川の清流があって四季におりなす林泉の美と幽すいは、市民の憩いの場として古くから親しまれてきた。源氏物語、枕草子をはじめ数々の物語や詩歌管弦にうたわれている名所旧跡でもある。
アクセス

公共機関のご案内】
●京阪出町柳駅・叡電出町柳駅より徒歩8分(三条京阪で地下鉄東西線連絡)
●地下鉄北大路駅より市バス(1・205系統)下鴨神社前(または糺の森)下車
●JR京都駅より市バス(4・205系統)下鴨神社前(または糺の森)下車
●阪急河原町駅より市バス(1・4・250系統)下鴨神社前(または糺の森)下車

【バス・乗用車道路のご案内】
●名神高速道路
京都南インターチェンジから国道1号線
京都東インターチェンジから国道1号線  
●バイパス
国道24号線(奈良方面)
国道9号線(山陰方面より)

※駐車場は神社の西側と南側にございます(参拝・婚礼は無料)
駐車料金 1時間 ¥300-

【お問い合わせ】
〒606-0807
京都府京都市左京区下鴨泉川町59
賀茂御祖神社(下鴨神社)
TEL:075-781-0010
FAX:075-781-4722
※お電話にてのお問合せは、 AM 9:00〜PM 6:00
更に詳しくは、下鴨神社公式webサイト http://www.shimogamo-jinja.or.jp/をご覧下さい。